父母や親しい方々とのお別れをしていくうちに、いつのまにか「人間の死は永遠の生命への通過儀礼かもしれない」と思うようになりました。そうでなければ、愛する人々との別れは余りにも切なく辛いからです。
人の死にざまは色々で、戦場で亡くなってしまう人生、交通事故の現場で、長い入院生活の末自宅で、とそれぞれの終わり方は違います。
この終わり方の違いは、どこから生まれてくるのでしょう?原因はいくら考えても、私にはわかりません。
人、それぞれの死の意味を考えようと努力してきたのですが、あまりにも神秘的で、私の心は乱れるばかり。ときには、自分の死に恐怖を感じ、このまま思索するのは非常に危険だ、と感じて考えるのを止めてしまいます。
洗礼を受けます時に神父様が色々のことを教えてくださいましたが、当時も今も、死んでみないとわからないなあ、と諦めています。
さて、色々の思索をしながら自分の旅路を何とか明るく締めくくりたいとの一念で、今も努力している考え方があります。それは比較宗教学の恩師が教えてくださった考え方、「信じると見えてくるもの」です。
神様の愛を信じると日常生活でのストレス、不安感や怒りが消滅し、幸福感に近い平安感、友好的な感情、健康感が増えるのも事実です。
人により湧き出す感情は相当違いますが自分の死への旅路を思索するときに「死は永遠の生命への通過儀礼」だと言い聞かせると自然に心が落ち着くのを感じます。神様の愛を信じると見えてくるものがあるよという、宗教心理学の恩師の教えは、我が人生の旅路での最高の教えのようです。