私の父とその兄弟たちの物語を始めると、子供たちは「もう100回も聞いたよ、」とため息まじりに応えます。私はというと、我ながらでかした、とほくそ笑むのです。
過去を思い出すことは大切です。昔、社会学の授業で、過去を学ぶことでこれまで何世代にもわたって侵してきた過ちを避けることができると教わりました。戦争、暴力、貪欲に関するニュースを毎日目にする限り、こうした研究が実際に活かされているかは疑問です。それでも、過去を詳しく学ぶことで、人間の行動パターンがもっとよく見えてくるのは確かです。そして、それはよいことです。
ところが、家族や共同体のメンバーとして、先祖の旅の物語を語り継いでゆく理由は、別のところにあります。過ちを未然に防いだり、人間の行動を理解したりすることではなく、むしろアイデンティティと絆にまつわるものです。夕食で物語を繰り返したり、日曜の朝に何度もそれを分かち合ったりすることで、私たちがこうした物語の一部となってゆきます。そして、こうした物語も私たちの一部となってゆくのです。祖父母や聖人たち、イエスや弟子、モーセや解放された奴隷たちの問題に耳を傾けるとき、自分について、また人々の綿々と繋がる旅路にあって私たちのしめる小さな場所について、何かを発見します。
子供たちはダルトン兄弟の物語はすべて知っていると感じているでしょう。諳んじることができるほどで、繰り返す必要なんかないと思っているかもしれません。子供たちのため息を聴いて、それでも私は望みを託しています。自分で気づいていないだろうけど、こうした物語もきっとどこかで自分たちのものとなって育んでいくんだろうと。