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旅路

竹内 修一 神父

今日の心の糧イメージ

 旅に病で夢は枯野をかけ廻る――これは、芭蕉の生涯最後の句、と言われるものです。旅の途中で、病身となります。そのような時に見る夢は、枯野を駆け巡っている自分の姿だけ――ということでしょうか。彼はいったい、どのような自分の死の姿を見ていたのでしょうか。

 死をどのように見るか――それによって、その人の生き方は、形造られるのかもしれません。多くの人は、死を恐れているのでしょうか。

 しかしかつて、マザー・テレサは、こう語りました――「もしも、死は神の家に帰ることだと正しく説明されれば、死を恐れることなどなくなるのです。」彼女が語る「神の家」とは、いったい何なのでしょうか。またこの安らかさは、いったいどこから来るのでしょうか。

 カトリック教会の葬儀ミサにおいて、次のような祈りが唱えられます。――「キリストのうちにわたしたちの復活の希望は輝き、死を悲しむ者も、とこしえのいのちの約束によって慰められます。信じる者にとって死は滅びではなく、新たないのちへの門であり、地上の生活を終わった後も、天に永遠の住みかが備えられています。」つまり、この世での死は、生命の終焉ではあってもいのちそのものの終わりではなく、一つの通過点にほかならない、ということでしょうか。

 イエスは、私たちを、永遠のいのちへと誘います。まさにこの点にこそ、彼の人生の意義はありました。このイエスを通して、神は、一つの掟を与えられます――それは、「神の子イエス・キリストの名を信じ、・・・、互いに愛し合うこと」にほかなりません。(1ヨハネ13・23)ここにおいて、信じることと愛することは、一つとなります。真のいのちは、ここに始まります。