わたしは、埼玉県の農家に生まれた。仏壇もあれば神棚もある、昔ながらの普通の家だ。それがいま、山口県の教会でキリスト教の神父として働かせてもらっている。自分自身のことではあるが、ときどきふと、「なぜこんなことになったんだろう」と思う。これは自分で選んだ道なのか、それとも何かに導かれてここまできたのか。
大学生のとき父が亡くなり、それがきっかけでキリスト教の扉を叩いた。キリスト教を学ぶうちに、もっと深く知りたくなって、インドのマザー・テレサのもとを訪ねた。マザーのもとで働くうちに、マザーから神父になることを勧められた。病気になったため日本に帰り、日本で神父への道を歩み始めた。10年の勉強を経て神父になり、山口県の教会に派遣された。事実をたどれば、そのようになる。父の死や、マザーからの勧めなどは、自分から選んだことではない。しかし、それらの出来事に直面してどの道を進むか、選んだのは自分だ。導かれたともいえるし自分で選んだともいえるだろう。
ただ、自分で選ぶときにも、必ずしも自分で選んだといえない部分がある。それは、どんな選択であっても、正しい選択をしたと思えるときには、自分の心の奥深くにある何か自分を越えたもの。清らかで美しいもの、気高くて尊いものに向かって自分を駆り立てる何かによって、動かされていた気がするからだ。それを「良心」と呼んでもいいかもしれないが、わたしはキリスト教徒なので、それをわたしのうちに宿った「神の愛」と呼びたい。そうすると、結局、自分で選んだようでいて、導かれていたということになる。
これからも、自分自身のうちなる神の声に耳を傾けながら、自分の道を選んでいきたい。