幼少の頃から聖家族の話は父母から、神父さまから、教え方さまから聞かされて成長した。
2千年前の人たちのことなのに、五島の大人たちの「語り」はとても現実的で、今、そこに聖家族が暮らしているかのように思われた。
「イエスさまのお父さまのヨゼフ様は大工さんちいうけん、暮らしむきがいつもよかったと思えんとよ。時にはお金に困って隣近所の人に借りたかもわからんし、その逆に、隣近所の人が困っとったら、ほら使わんねというてお金を持っていってあげたかもわからん。持ちつ持たれつで暮らしとったっち思うとよ。見習わんばね」
「マリアさまは、早くにヨゼフさまを天国に見送り、そして、イエスさまも見送った。あと、ひとり暮らして苦労したって思う。じゃばってん、愚痴ひとつ言わず、まわりの人の助けになったっち思う」
「ヨゼフ様が病気の時にはおふたりで協力してよくしてあげたと思う」などと、勝手に想像して、見習わんばと結論づけていた。
五島の大人たちは小学生の子にもわかるようにやさしい言葉で語るのだった。
厳粛に黙想するのではなかったが、実生活の中で、五島弁で黙想していたと私は思っている。
私も歳を重ね、病気をしたり、親類や友人知人との永遠の別れを経験することが多くなった。
そんな時、私は、五島の大人たちがしているように私なりの黙想をする。
聖家族も人間として生きて、筆舌に尽くしがたいご苦労をされた。
その聖家族のご苦労に導かれて、私たちは今日も明日も精一杯生きていきたい。