初めて山形の立石寺を訪れたのは、まだ残雪が足首を覆うような季節でした。芭蕉は、旅の途中ここで、あの有名な俳句「閑さや岩にしみ入る蟬の声」を残します。奥の細道です。切り立つような山肌の上にたたずんでいます。芭蕉は何に導かれ、何を思い、そして何を目指したのでしょうか。それは詳しくはわかりませんが、きっと何かが彼の心に語りかけ、彼の背中を押したのでしょう。
聖書に登場するアブラハムもまた、長い旅に出かけました。アブラハムとは、「父は愛する」という意味。彼は「多くの国民の父」とされ、神からの召命を受けます。「あなたは生まれ故郷/父の家を離れて/わたしが示す地に行きなさい。わたしはあなたを大いなる国民にし/あなたを祝福し、あなたの名を高める/祝福の源となるように」。(創世記 12・1~2)アブラハムは、カルデアのウルを出て、メソポタミアのハランに移り、そこで神と出会い、新しい使命を受けます。更にカナンに移り、エジプトにまでも向かいます。彼はまた、信仰の模範ともされ、イエスも彼に尊敬を払っています。
私たちもまた、これほど長い道のりではないかもしれませんが、神からの招きを受け、それぞれ自分の道を歩んでいます。いったいどこに向かうのでしょうか。それはいつも、不安を伴う旅路です。しかしその際大切なのは、自分の心の奥深くに語りかけられる神のささやきを聴くことでしょう。耳偏の聴く、聴覚の「聴」という漢字の旁は、「まっすぐな心」という意味だそうです。
芭蕉が聴いた声、アブラハムが聴いたささやき、そして私たちの心に語りかけられる言葉――もしかしたら、それらはみな、一つにつながっているのかもしれません。