「おはよう」と言って、誰かが僕の肩をポンと叩きました。(誰だろう?)と思って振り向くと、それは、仲の良い一人の友だちでした。
「おはよう」とこちらも、応えます。その友だちは、僕の肩に軽く触れたのでした。しかしそれは同時にまた、僕自身に触れたことでもあります。身体的にも精神的にも、更には霊的にも、私たちが誰かのある一部に触れる時、それは同時にまた、その人自身にも触れているのです。
私たちのコミュニケーションは、いろいろな形でなされます。直接身体的に触れ合うこともあれば、言葉で思いを伝えあうこともあり、またある時は、祈りを通して願いを届けることもあります。
いずれにしても大切なのは、相手への思いやりであり気遣いです。それは本来、私たちが生得的に持っている優しさです。このような経験によって、私たちは、真の幸福へと招かれます。
「心は心に語る」という言葉があります。自分の思いを相手に伝えたい――そのような時、私たちは、とりわけ難しい言葉や表現を使う必要はありません。むしろ、単純で素朴な言葉で足ります。大切なこと――それは、相手が受け取ることのできる言葉を、受け取ることのできる所に、受け取ることができるように届ければいいのです。
ある重い皮膚病を患っている人が、イエスに癒しを願います。「イエスが深く憐れんで、手を差し伸べてその人に触れ、『よろしい。清くなれ』と言われると、たちまち重い皮膚病は去り、その人は清くなった」。(マルコ1・41~42)
イエスの心から溢れ出た言葉が、病人の心に触れました。イエスのいのちと病人のいのちとの触れ合いです。それはまた、いのちの再生にほかなりません。