聖書の中に、イエスさまと弟子たちの不思議な「ふれあい」の話があります。イエスさまが十字架上で亡くなった後、墓を見に行った婦人たちが天使と出会い、「イエスは生きておられる」と告げられたことが弟子たちに報告されましたが、誰も信じませんでした。その後、二人の弟子が、エルサレムを後にして、エマオという村へ歩いて出かけている時の話です。
二人が歩いていると、「イエス御自身が近づいてきて、一緒に歩き始められ」ます。(ルカ24・15)
しかしながら、二人の弟子たちは気づきません。その後、イエスさまご自身がこの二人に聖書全体にわたり、御自分について書かれていることを説明されます。
目指す村に着いた時、二人は「一緒にお泊りください。そろそろ夕方になりますし、もう日も傾いていますから」と言って、イエスさまを無理に引き止めます。(同24・29)食事の席でイエスさまはパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いて二人の弟子たちに与えられます。すると、二人の弟子の目が開け、イエスさまだとわかります。しかし、そのお姿は見えなくなってしまいます。
そこで、二人の弟子たちは気づきます。「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、私たちの心は燃えていたではないか」と。 (同24・32)
この不思議な物語には、今の時代を生きる私たちにとって、イエスさまと「ふれあう」ためには、また、一緒に私たちと歩いていてくださるイエスさまに気づくためには、どうすればよいか、というヒントがあります。
それは、聖書のみことばを通して、また、「パンを裂く式」とも言われるミサを通して、私たちは、時代を超えて、今も共に歩いてくださるイエスさまと確かに「ふれあう」ことができるというヒントなのです。