私にとっての生きがいと言えば、二つの大きな柱から成り立っているように思います。しかし、改めて考え直してみますと、生きがいというような大問題に対して、同時に二つの旗を掲げるというのはいかがなものか、とも考えられます。
一つ目の柱である音楽の指揮は、私にとって最も情熱を要求される分野で、やり甲斐は感じるものの、生きがいとはちょっと違うような気がするのです。
そこでもう片方の信仰を当てはめてみると、今は迫害などにあっていないからかも知れませんが、キリストに従うこと、キリストと共にいられること、それが胸にずっしりと感じられるのです。
というのは、神様が私と過ごすことを喜んで下さり、それがつまり神様の栄光になるなら、それが私の生きている意味になるから。
つまりそれが私の生きがいになるから。
しかしいったい、真に偉大な方が私と一緒にいるのを喜んで下さる等と言うことがあるでしょうか。それは、本当なのでしょうか。殆ど信じられませんが。しかし、本当にそうなのだということなのです。
それが神様の栄光なのだということです。私とは比較を絶した偉大な神様なのに。
私達は教会のミサの中でも、私が指揮する音楽の中でも、偉大な神様に何とか栄光を帰そうと、一生懸命になります。けれども、この栄光が相応しく神に備わるために、私達が出来ることは、ほんの小さなことです。私達は栄光を扱うことなど、全く慣れていないからです。
しかし、私達が身の程を知って、小さな者として主の御前で喜んでいると、偉大な方のほうから、栄光は自然に輝きを増してくるらしく、その時、主の胸を飾るのは私達の小さな花束なのです。
このとき、私達は、幸せで一杯になるのです。