フランシスコ教皇様は、昨年10月の一般謁見の折に、次の話をされました。
ベトザタの池で数十年も水に入るのを待っていた病人に、イエス様が「良くなりたいか」と問われた聖句(ヨハネ5・6)を取り上げて「イエス様は奇跡を行う前に、しばしば相手の望みを尋ねます」と話されました。この病人は「良くなりたいです」と応えることができなくて、誰も構ってくれないことへの不満をぶつけました。
教皇様は、神と対話しながら本当に望むことを理解することが肝要である。多くの人が人生に望むことが分からずに苦しんでいる。その原因は自分の心の奥深い望みに触れたことがないからである。と、指摘され、「奥深い望みは、喉が渇いている時に似ています。飲み物がなくても諦めることはありません。むしろそれを求める考えと行動は増し、渇きを癒すためにあらゆる犠牲を厭わないでしょう。心の奥深い望みとは、自分がどこにいて、どこに向かうかを理解するための羅針盤なのです」と話されました。
エリコの近くでイエス様と出会った盲人は、「何をしてほしいのか」と問われて、「主よ、目が見えるようになりたいのです」と応えました。「盲人はたちまち見えるようになり、神をほめたたえながらイエスに従った」と聖書は伝えています。(ルカ18・41、43)
「目が見えるようになりたい」という望みは切実なものに違いありません。しかし、苦しみをわかって下さり救ってくださるイエス様と共に生きることが、心の奥深い望みであると気づいたからこそ、イエス様に従う人生を選んだのではないでしょうか。
いつか、イエス様から「何をしてほしいのか」と問われることがあったとき、心の奥深い望みに触れて応えることができますように、祈り求め続けていきたいと願っています。