「谷川の水をもとめて、喘ぎさまよう鹿のように 神よ、私はあなたを慕う。」(典礼聖歌)・(参 詩篇42・2)
荒涼とした砂漠や岩場で鹿が水を求めて喘ぎ彷徨うように、神を慕ったことはあるでしょうか。実はこうした霊的な渇きは誰にでも起こっているかもしれません。
遠藤周作は『深い河』という作品でこうした人間の霊的な渇きを描きます。
1970年代学生運動も下火になった白けの時代に、いわば東京砂漠で底冷えのする空虚感に苛まれる女性の道行きを辿ります。成瀬美津子は物質的に保障されながら、何をしても満たされず、本物の人生が欲しいともがきます。大学で詰襟の学生服を着た堅物の大津にちょっかいを出しますが、卒業して平凡な男と結婚します。それでも自らの渇きは癒されず、神学生となった大津を追って仏蘭西のリヨンを訪ねます。人を愛することのできぬ人間であると悟り、離婚に至ります。ボランティア活動で愛の真似事をしますが、意地悪な気もちが芽生え、悪の問題に苛まれます。
その後も、印度の巡礼地に神父となって行き倒れのために働く大津を訪ね、宝探しを続けます。美津子は同様に魂の問題を抱えたツアーの同行者らと深く関わることで変えられ、最後には印度の母にして神なる河ガンジスに自らサリーを纏って人々と共に身を浸します。突っ張っていた美津子が霊的なものに、自分にもまた人生の全てに素直に向き合います。
人生の意義を求めて、美津子はこうして神と一つとなります。
「私たちの心は、あなたのうちに憩うまで、安らぎを得ることができないのです」。このアウグスティヌスの言葉は、美津子の旅を物語るかのように神に向かう人間の姿を表しています。その時が来るまで、私たちも必死に喘ぎ彷徨いたいものです。