「渇き」で連想されるものと言えば、「砂漠」であり、砂漠に欠乏している「水分」であり、また、反対語の「潤い」ではないでしょうか。
砂漠には水分はなく、「緑」もありません。「渇き」を癒すものは、唯一「水」であり、水が無くては「渇き」は絶対癒せません。
心の「渇き」に於いても同じように、これがなくては癒やされないというものが何かあるのではないでしょうか。
心の「渇き」には、水ならぬ渇きを癒す言葉、特に「求めよ、さらば与えられん」(参 マタイ7・7)など、聖書の「み言葉」ではないでしょうか。実際、多くの人々が聖書に癒しの「み言葉」を見出して蘇り、生き生きと生かされている姿を見たことがあるのです。
また、聖書は「人にしてもらいたいことを人にもしなさい」(ルカ6・31)と、他人事をわが身になって考えることを教えています。
これは、当たり前のことと思われがちですが、実際、相手の気持ちや考えを、その場で即座に的確に知ることなど、よほど敏感に気がつく人でない限り、困難なことです。
「気がつく人」とは、「機敏に直感が働く人」と言えると思います。「機敏に直感が働く人」は、自然と必要な時に、必要なことを果たすことが出来、人に尽すことも出来ます。その結果、人々に感謝され、好感を持たれます。「気がつく人」とは、とりもなおさず、世の中を明るくしてくれる、誠に有難い存在と言えると思います。しかし、現実の世界では、残念ながら、まだまだ「気がつかない人」の方が多いように思われます。
このような現実を前に、人それぞれ、自分のことだけでなく「互いに隣人のことを気遣い、世の中の渇きを癒す人」になるよう、尚一層修徳に励みたいものであります。