私たちが母から生まれ、産声をあげるのは、人生最初の「渇き」を経験するからかもしれません。呼吸のため空気を求め、生きるために大人の保護と愛を求めるのです。渇きとは、小さな赤ちゃんを笑わせるどころか、まず泣かせるような、厳しいことなのでしょう。
しかし年齢を経るにつれ、その渇きの感覚すら失ってしまうほどの挫折や恐怖に見舞われる経験を、私たちはしていきます。渇きにあえぐのは大変な状態ですが、実は渇きすら分からなくなるほど渇ききってしまうほうがはるかに深刻な事態ではないかと、私は思うのです。
あるとき、私は続けてたくさんの災難に見舞われ、息もつけないほど疲弊しました。渇きを感じる余裕すらなく、祈る気力を失い、身も心も疲れ果ててしまいました。
そんなとき、一人の神父様と連絡する機会があり、藁にもすがる思いで、神頼みならぬ神父様頼みをしてしまいました。
「いま私は次々と災難に見舞われて疲れ果てています。もうくじけそうなので、どうかお祈りください」
神父様のお返事は、忘れることができません。
「麻由子さんが祈れなくても、私が代わりに祈ってあげます。だから安心していてください」
この一言が、どれほどの力と励ましになり、救ってくれたことか。神父様が私の代わりに神様と通信してくださっている、そう思えただけで災難に耐え、ときには戦うこともできました。
そして、いつか元気を取り戻せたら、私も「渇き」すら失っている人の代わりに祈ってあげられるようになりたいと思ったのでした。
渇きすら失うほど渇ききっても、イエス様はあの神父様のように、代わりに祈ってくださるのでしょう。
いつかきっと、この気持ちがあれば、渇きは癒されると信じます。