人を咎めず、「ゆるす」ということは、なまやさしいことではありません。甚だ困難なことと言えると思います。どのようにすれば、この困難を克服し、「ゆるす」ことが出来るのでしょうか。深く考えさせられます。
そもそも、「ゆるす」ということは、どういうことなのでしょうか。アレコレ、考えさせられますが、結局「ゆるす」とは、気がかりな相手を、なんの恨みや憎しみもなく、スンナリとありのままの姿で受け入れることだと思います。しかしこれは、言うは易く、実行極めて困難であるに違いありません。
「ゆるす」とは、「相手の気がかりなことに執着しないこと」であり、結局「あらゆる物事に囚われず、自分自身を解放し、自由になる」ことだと思います。
これこそ、容易なことでなく、並々ならぬ努力の要ることであります。しかし、心の平安のためには、この努力は絶対必要であることを、聖書は次のように教えています。
「人を裁くな。そうすれば、あなたがたも裁かれることがない。人を罪人だと決めるな。そうすれば、あなたがたも罪人だと決められることがない。赦しなさい。そうすれば、あなたがたも赦される。」(ルカ6・37)
このように聖書は「ゆるし」の大切さを強調し、「ゆるし」の実践を強く促しています。
私どもも、「ゆるし」について、あらためて何らかの決意をし、人を咎めない「ゆるし」の習慣を、ぜひとも身に付けたいものであります。
これは、修徳の一つの試練として、あえて挑戦し、キリスト教徒にふさわしい人材となるよう、最善の努力を続けたいものであります。