司祭叙階が間近となった頃、ある方から、はなむけのお言葉をいただきました。「後ろ姿からキリストを伝える司祭となられますように」と。
あれから9年余り、私の生き様は自分ではなく、キリストを映し出しているか、・・弱さも欠点も多い私だからこそ一層、主キリストに自分を委ねて歩んでいるのか、改めて問われていると感じます。
大神学校入学前の面接で、大司教様は私に「もし自分のために司祭になりたいのなら、ならない方がいい」と仰った上で「フランス語でディスポニビリティ(disponibilite)と言って、求められたことに自由に応える姿勢を大切にして、いい司祭になってください」と、仰いました。
やがて入学すると、不安で悩みました。「私は本当に神さまから呼ばれているのか?自分が勝手に司祭になりたいだけではないのか」と。
しかし神学校からストップはかからず、私は司祭とされました。でも司祭となった今も、自己中心的悩みに陥る自分に気づきます。
ある教会での講話の時、終わる度に、上手くいかなかったと沈み込む私に、主任神父様は怒り気味におっしゃいました。「お願いして本当によかったと思っているのに、なぜ落ち込むの。自信を持って」と。
その時気づきました。私には本当の謙遜さが欠けていたと。たった五つのパンが多くの人を満たした奇跡のように、私の話が拙くとも、聞く人の心に働きかけ、御業をなさるのは私ではなく神さま。神さまに委ねることを忘れそうなその時こそ、「あなたがたが私を選んだのではない私があなたがたを選んだ」という力強い主のみ言葉を、心に刻みたいと思います。(ヨハネ15・16)
神さまの大きな手のひらの上で、今日も信頼のうちに歩めますように