先日、友人の一人と話していて気付かされたことがあります。それは自分と全く同じ人と一緒に生活するのは、きっと嫌だろうなという事です。
口やかましく、気を使ってもらうのが苦手と言いながら、実は、あるところでは気を利かせてもらいたいと思っている、そんな人と付き合うのは難しいと思うからです。ですから、こんな私に付き合ってくださる方々にとても感謝しています。そして、私自身が付き合いたくないと思う人ではなく、一緒にいたいと思う人にならなくては申し訳ないと思いました。
そこで私が一緒にいたいと思うのは、どんな人かと考えてみました。緊張しなくてよく、熱心でなくてもよいからある程度の興味をもって話を聴いてくれる人、一緒にいて安らぐ人でしょうか。このような人となら共同生活もどんなにか楽なことでしょうか。とは言え、私が安らぐための条件を相手に求めてそれが叶えられることはほとんどありません。私の方からの関わり方が大事な気がします。
ここで、「愛すべき私の隣人とはだれか」という質問に対してイエス様がなさったたとえ話を思い出します。旅の途中で追いはぎに襲われて半死半生で倒れている人を見た一人の人は、彼に近寄り、応急手当てをしてから宿まで連れていき、よくなるまで面倒を見てくれるよう頼みます。もちろんその費用も出します。
イエス様は聞いている人に問いかけます。「誰がこのけがをした旅人の隣人となったと思うか。」そして、最後にこう言われます。
「行って、あなたも同じようにしなさい。」(参 ルカ10・25~37)
これは、よく聞くウインウインの関係ではありません。ある意味一方的な関わり方で、これこそが本当の安らぎにつながる関わり方なのだと思います。