前任地の教会にいた頃、ある90代のおばあちゃんを毎月訪問していました。毎回、「どちらの神父様?」という初対面の会話に始まり、お祈りが終わるとおばあちゃんは、幼い頃、故郷の黒島で熱心に教会に通ったこと、今は毎朝4時に起き、家庭祭壇の前で、朝夕、ロザリオの祈りを欠かさないことを話してくださいました。その後にいつも、息子さんに突然先立たれた時のことを話しておられました。息子さんがいつになく、「おっかさん、今日のご飯と味噌汁は本当においしかった。ありがとう」と言って、それから少し不調でやすみましたが、翌朝気づくと天に召されていたそうです。「あの時の気持ちは何とも言いようがなか。」「でも、お祈りがいちーーーばんよか。お祈りすれば、つらかことは全部流れて消えていく。お祈りが、いちーーーーーばんよか」。そう話すおばあちゃんは、祈りのうちに100歳で安らかに旅立たれました。
遡ると、幼い頃の私にとっても、祖母が安らぎの存在でした。お祈りに熱心で、いつもそばで可愛がってくれました。しかし一度だけ、優しい祖母から叱られたことがあります。それは、吹雪の長崎に来日された、聖ヨハネ・パウロ二世教皇による野外ミサの時です。小学4年の私があまりの寒さに泣いていると、「けん、殉教者はこのつらさに耐えたとよ。だから泣いたらいかん」と強く言います。祖母にとっては神さまとのつながりが第一で、そこに本当の安らぎがあると知っていたのだと思います。
愛と苦しみは必ずワンセット。しかし、究極の安らぎは、創造主である神とつながることであると、聖アウグスチヌスは教えています。
「古くて新しき美」である神さまに今日も出会えますように。