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安らぎ

植村 高雄

今日の心の糧イメージ

 青春時代、森の散歩で感じた「安らぎ」の体験がなかったら、私は心の安らぎという健康の目安を得られなかったかもしれません。

 若い頃、仕事でも人間関係でも「嫉妬と焦り」の体験が案外沢山ありました。顔はにこにこしているのですが、心の奥底では蛇のようにのらりくらりとしていた青春時代もありました。外国、特にイギリスという異文化の中での驚きと不安の生活は「安らぎ」どころではありません。

 さて、もしこの自然が与えてくれる安らぎの体験がなければ、厳しい現実生活での喜怒哀楽に振り回され、今の幸福が得られなかったかもしれません。人間一人一人の安らぎは自分で掴む以外方法はありません。

 学生の頃、友達数名でしばしば奥多摩を歩きました。花や穏やかな風に感じる私の感情、安らぎを益々強めてくれたのは友達との会話でした。女性の学友と男性の学友から受ける「安らぎ」の程度と種類がこれまた違うのです。

 内容の違いといえば、例えば洗礼を受けた後の違いに驚いたことがあります。同じ風景でも日常生活でも体験の解釈が激変した思い出があります。洗礼前は数学と物理が嫌いでしたが、洗礼を受けた後は宇宙の仕組みや方程式が理路整然としていて大好きになりました。森の散歩で出会う蛇は嫌いでしたが、洗礼を受けた後はアダムとイブのお話を思い出すのです。

 今まで避けていた怒りや哀しみが安らぎの源に見えてくると、生きていて本当に良かったと思います。激流のような青春が懐かしい。

 さて、こうして考えていくうちに、永遠の生命って何だろうと思います。天国にたどり着いて初めて理解することでしょうが、天国への空想を日常生活での「安らぎ」から読み解きたいなあと考え始めています。