思うように事が運ばずに焦ったり、イライラしてしまうことがある。そんなときは、"もうすべてを投げだしてしまいたい"、と弱気になってしまう。でもどこかで"ダメダメ、もっとしっかりしなくては。きちんと計画的にやってこなかった自分が悪いんだ"と言い聞かせ、何とか平常心を保って頑張ってみる。だけど、自力で何とかしようとすればするほど周りが見えなくなって身動きが取れなくなり、さらに焦りやイライラが募ってしまう。
そんな思いを抱えているときに限って、赤ちゃんを抱いた母親の姿が妙に目に留まる。
母親の腕に抱かれスヤスヤと眠っている赤ちゃんは、時々小さなあくびをし、手足を伸ばして母親の存在を確認するかのように、母親の胸に頬ずりしている。そんな赤ちゃんを母親も幸せそうな顔で見つめている。
こうした光景を見ていると、私まで穏やかな優しい気持ちになり、自然と笑みがこぼれて、そこに、何とも言えない安らぎを感じてしまう。
主イエスは言われる。「疲れた者、重荷を負う者は、私のもとに来なさい。そうすればあなたは安らぎを得られる」(参マタイ11.28~30)
色々なことを手にしてくると、それを手放すことの難しさを感じる。なんでも出来ると思えてくると、力を抜くのを忘れてしまう。そして、時に、隣人愛のはずの行為が、自己愛にすり替わっていることに気づかされることもある。
私が私だけに縛られている時、幼子と母親の姿が目に留まってしまうのは、ふっと力を抜いてイエス様に委ねることを思い起させるためなのだろうか。
安らぎは頑張って自分でつくり出すものではなく、受け取るものなのだろう。自分のありのままを差し出し、静かに目を閉じたとき、じんわりと感じ取られるものなのだろうと思う。