「麗しい」という言葉は、何となくわかるけれども、正確にはよく理解していない、という言葉の一つではないだろうか。広辞苑を引くと、7項目もの意味があったが、まとめるなら「乱れたところがなく、整って美しい」という意味らしい。
この「麗しい」という語は、聖歌の歌詞によく使われている。
私にとっては聖歌305番「みははマリア」の歌詞だ。「み恵こそはきよき慰め/輝かしき君がかむり/うるわしき君がえまい」。幼い頃からこの聖歌を何度歌っただろう。子どもにとって、麗しき君とは晴れやかに美しく、心のまっすぐな聖母マリア様なのだった。
10年以上昔のことになるが、高校時代の同級生が亡くなり、教会での葬儀に参列したことがあった。私が子どもの頃通っていた、実家の近くの教会である。
聖堂に入ると、祭壇の下、左側にマリア像が見えた。記憶の中の御像より小さく感じたけれど、なつかしいマリア様であり、純白の衣と青い帯も変わりない。見上げているうちに、何に触れられたのだろう、見えない殻が静かに割れ、私は自分自身があふれ出すのを感じた。そして、露わになった自分は弱くて脆いながら、いつも見守られて来て、今、友人と別れる悲しみにも、まなざしが注がれているのだ、と思っていた。
葬儀のミサが始まり、聖歌が歌われた。棺の中の同級生はきれいにお化粧されていて、若々しく見え、それがいっそう痛ましかった。でも彼女はもう聖母に抱き取られたのだ。魂を委ねたので、穏やかな表情だったのだろう。私たちも祈り、歌った。ミサの後のことは覚えていない。ただ空がよく晴れていた。麗しい日だった。