子どもたちの目は、自分の使命を見つけると生き生きと輝き出します。
小学生のC君は、私が授業で使うギターを運ぶ係になりました。その仕事を与えられたC君は、とても嬉しそうでした。授業の度に、彼は張り切って、ギターを職員室から教室へ、教室から職員室へと運んでくれました。ギターを運んでいるときのC君はとても自信に満ちて立派でその姿はまこと"麗しき王子"といった具合です。
ところがある日の授業の後、C君が片付けに少々手間取ってモタモタしている間に、このままでは次の授業に差し支えると思った別の子が気を利かせて、 彼より先にギターを取って、職員室へ持って行ってしまいました。いつもニコニコしているC君ですが、誰かがギターをすでに持っていってしまったことに気づくとビックリして、「ギターは、ぼくが運ぶんだよ!」と思わずさけびました。
C君はギターを運ぶ係を任されたことに、ささやかながら誇りをもっていたのです。
与えられた仕事を喜んで果たそうとする子どもたちの、飾らない、本当に一生懸命な姿を見せてもらっていると、ハリボテをベタベタくっつけて、ゴテゴテしている自分の姿が見えてきます。
子どもたちには、持たない者としての自覚と与えられたことへの喜びがあります。私は何かを持っているような顔をして、与えられていることへの感謝と喜びを、いつの間にか忘れてしまっている。そう思いました。
今ここに自分が与えられていること、そして、なすべきことが与えられていることを、疑うことなく信じている子どもたちの美しい瞳を通して明らかにされる、神の計らいに心うたれます。
「神のなさることは、すべて時にかなって麗しい」(参 コヘレト3・11)