私はあるシスターに仕事上の人間関係の悩みを相談した。シスターは聖書の中に出てくる、マリアのエリサベト訪問の箇所を挙げ、二人の母の生き方を見つめて、自分を受け入れるように諭してくれた。
神の御子を宿されたマリアが、子を身ごもって6ヶ月になるという年老いたエリサベトの家に手伝いに行く、という箇所である。(参 ルカ1・39~45)
シスターの解釈によると、年下のマリアが神の御子を宿し、自分は洗礼者ヨハネとなる子を宿している。エリサベトは不公平さのためにマリアに対して頭にきたというのだ。私は「シスター、そんなぁ~、頭にくるなんて」と反論したが、"あなたは青い"というような表情をして、「エリサベトは自分の子供との生活が短いことも含めて、若いマリアをうらやんだ。けれど自分の長年の恥を顧みてくださった神に感謝して、マリアをほめたたえたのだ」と言った。一方、マリアは喜びのうちに神をたたえ、エリサベトを見守っていたと言う。
時は過ぎて二人の母が産んだ子は30歳になり、洗礼者ヨハネはヘロデの結婚を非難したため牢獄へ...。ヨハネはイエスに洗礼を授け、天からの声も聞いたにもかかわらず、イエスに弟子を送り「来るべき方はあなたでしょうか」と尋ねさせた。(マタイ11・5)弟子が戻ってきてイエスの様子を伝えると誘惑は去る。
一方、十字架上のイエスは?「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と御父に向かって叫ぶ。(マタイ27・46)そして、福音史家ルカはイエスの最期を「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます」と書き記す。(23・46)
レジリエンスとは、人生の節目節目の自己鍛錬から始まり、末期の闇にあっても、イエスのように、永遠の扉が開かれることを暗示する人生のキーワードなのだ。