子どもの頃、私は学校から帰ると真っ先に母のところに向かい、話が尽きるまでしゃべり続けていました。台所で夕飯を作っている母の周りをウロチョロしながら、今日あった出来事を「一から百まで」報告していたので、母からはよく「また、まりあがピーチクパーチクさえずりに来た!」と言われていました。今思うと、母の所であんなに沢山さえずることができたのは、母が私の話を楽しそうに聞いてくれていたからなのだと思います。母は、その時はあまり何も言わないのですが、眠る前に布団に入ってからいろいろと話してくれていたように思います。私がさえずっていた話について、「お母さんはこう思ったよ...。神さまはこう思っているんじゃないか...。」と自分の考えを話してくれたり、神さまの方へつなげてくれたりしていました。
祈りは神さまとの対話だと言われています。対話というからには、私と神さま、双方からのやり取りで成り立っているのだと気づかされます。自分のことばかり話して、神さまの声に耳を傾けることを忘れているな、と反省させられることが多々あります。以前はそのことで、自分は祈ることの出来ない人間なのだと悩んでいたこともありました。しかしある時、もうこれ以上は何もないというほど神さまに話し尽くした後に、深い沈黙が訪れ、その心地よい沈黙を味わっていると、一滴の水が水面に落ちて波紋が広がるように、神さまの存在、神さまの声を身近に感じる体験をしたことで、私の祈りには変化があったように思います。
私が話し神さまが聴く、神さまが話し私が聴くという祈りの根本的な形は、まるで幼い頃の私と母との対話のようでした。