聖堂で過ごす静かな時間ほど、ぜいたくな時はないかもしれません。喧噪から離れて自分を取り戻す時間を、わたしたちは、だれしも必要としているのではないでしょうか。
静かなところで、心と体に耳を傾けるとき、いろんな声が聞こえてきます。それは、言葉になるものも、ならないものもあります。けれども、沈黙の中でまず気づくことは、自分の内面はとっても賑やかだということです。常に何かを感じ、思い、考え、うれしくなったり、かなしくなったりしています。どんなに静かな場所にいても、心はまったくと言っていいほど沈黙しません。それでも、しばし沈黙に身を置き、祈る中で、自分が本当に目指すものが照らし出されてくるという経験を何度もしました。
聖書の偉大な預言者モーセは、寡黙で口下手でした。そのため、神から選ばれエジプトの奴隷となっていた人々を救うように命じられたとき、一生懸命断ろうとしました。「ああ、主よ、わたしはもともと弁が立つ方ではありません。...どうぞ、だれか他の人を見つけてお遣わしください。」(出エジプト記4・10~13)それでも、神は、このモーセを通して人々に語ることをお望みになりました。
イエスの養父ヨセフも、聖書を読む限り、極めて言葉数の少ない人物です。そして、神はこのヨセフに、神の子イエスをお委ねになりました。
独り沈黙のうちに祈るのもよいものですが、わたしは、聖体を前に皆で沈黙のうちに祈る聖体礼拝がとても好きです。ともに祈るとき、心の中のざわめきは不思議と小さくなります。心に光を与える沈黙を分かち合いながら、救い主キリストを見つめると、言い表せない平和が心を満たしていきます。これこそ、すべての人が、共通して目指すものではないかと思うほどです。