慎ましく

片柳 弘史 神父

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 何を幸せと考えるかは、人によってずいぶん違う。千人いれば千通りの幸せがあるといってよいし、少なくとも「これさえあればあなたも幸せ」というような形で幸せを定義するのは不可能に近い。

 わたしが知っているあるお医者さんは、服装にあまり気を使わない。大きな病院を経営しているのでお金はあるはずだが、高級な時計を買ったり、外車に乗ったりすることもない。家族と過ごす時間を大切にし、休みの日には市民農園で野菜づくりに精を出す。それだけで毎日を幸せに暮らしている。ちょっと不器用だが正直で、患者さんたちから愛されるお医者さんだ。

 老人ホームで介護の仕事に従事しているある女性は、ご主人に先立たれ、子どもたちも巣立ってまったくの一人暮らしだ。仕事を通して生まれる出会いと、稼いだお金で友だちとときどき出かけるバス旅行を楽しみにして、毎日を幸せに暮らしている。たまには子どもや孫も会いに来てくれるし、何一つ不自由はないそうだ。

 幸せとは、お金があって、贅沢な暮らしができること。仕立てのいい服を着てバリバリ仕事をこなし、いわゆる上流の人たちと付き合うこと、というようなイメージもあるが、そんな暮らしをしながら本当に幸せそうな人にはあまり会ったことがない。逆に、いつも誰かをうらやんだり、自分がまだ持っていないものについて悩んだりしていて、あまり幸せそうに見えない場合が多いのだ。

 結局のところ、何が幸せかは、一人ひとり自分で決めるしかないということになる。生きがいを感じながら毎日を楽しく暮らすために、自分にはこれがあれば十分。そう思えるものを見つけ出し、それをしっかり守りぬく。それが幸せということなのだろう。

慎ましく

シスター 下窄 優美

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 私たちの修道会は聖母マリア様の名前を戴いています。そして、「私は主の仕え女です。お言葉どおり、この身になりますように」というマリア様の言葉を自分たちのものとしています。さらに、この言葉のラテン語の頭文字をとったFiatの文字を会章として胸につけています。マリア様の生き方に倣おうとしているわけですが、具体的にどのような生き方に倣うかというと、その慎ましい生き方ではないかと思います。そして、慎ましく生きることの根本にあるのは、自分が何者であるかを知るということだと思います。

 私は、イエス様が十二使徒を選ばれた場面を読む時、いつも私たち自身の召命に納得させられます。私たちがこの会に呼ばれた理由は、パウロがコリントの教会の信徒に書いているのと同じです。

 「神は知恵ある者を恥じいらせるために、世の愚かな者を選び、強い者を恥じ入らせるために、世の弱い者を選ばれました」。(2コリント1.27)これは謙遜で言っているのではなく、事実です。私たちは、何か目立つようなことがあると「これは私たちらしくない」と思います。ですから、この原稿の執筆についても「本当にいいの」という声があったくらいです。

 マリア様は神のお告げを受けたとき、ご自分の理解を越えた神の計画に「そうなりますように」と答えました。それは、神がご自分にそれをお望みであるという事が分かったからです。マリア様の決断の根拠は、それが神のお望みであるかどうか、それだけでした。

 私もどれほどのことが書けるのか分からないけれど、神様が私たちを使おうとしておられることは分かりましたので、書かせていただきましょうとお答えしたわけです。Fiatを生きるものとして。


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