
神父になるための学生だった頃からお世話になった先輩神父がいます。
いつも、「おまえうまいもの食べているか」と言って、学生の身分では食べることのできない店へよく連れて行ってくれました。
何重にも積み重なったうな重、松茸の香り豊かなどびん蒸し、郊外のしゃれた隠れ家的な店での鮎料理、築地市場付近の鮨屋の舟盛り、動いているのをおそるおそる食べた鯉の活き作りなどなど、その後めったに食べることのないものばかりです。
私が肉嫌いなのを知っていて、「この前、おまえの先輩が来たときはステーキ屋だったけど、おまえには無理だからなあ」と、私の好みに合わせてくれていました。
その後、その神父を訪ねて、働いておられる教会にうかがったことがあります。
色々な会話で時間を忘れかけたとき、「もう昼だから、食べて行きなさい」と声をかけてくれました。いつも私を豪華な食事に誘ってくれる神父の昼飯に興味があり、「お願いします」と返事をしていました。
ところが、出てきた昼食はお湯がかかったチキンラーメンに卵が一つ載っているだけなのです。私がびっくりしていると、「いつも良いもの食べているから、昼食はこれが良いんだよ」と笑って応えてくれました。
よく考えてみると、神父の給料では、贅沢は続きません。その神父の部屋を見回して見ると、贅沢なものは何一つありません。本当に慎ましく暮らしているのです。
この神父が亡くなられて、楽しい食事を思い出すたびに、「感謝するなら、おまえも同じことを後輩にしなさい」の言葉が響きます。"誰かのために"の心が、普段の慎ましく淡々とした生活の土台になるのだと感じます。

今回のテーマは、「貧しいものは幸い」というイエスの教えから発想されたかもしれません。イエスはこの言葉を通して、苦しむ人こそ神の心に留まると希望を与えています。(参 マタイ5・3)
しかしまさかイエスは、人道的な権利を放棄して原始時代のような生活をしなさいとか、自分の考えや言うべきことを「わきまえて」押さえつけておとなしくしていなさい、と教えているわけではないでしょう。また、いくら神様が心に留めてくださるからといって、みんなして苦しい生活をしなさいと説いてもいないと思います。
新型コロナウイルスの出現で世界の貧困問題が拡大し、日本でも、子どもの7人に1人は日々の食事に困る状況を含めた「相対的貧困」状態にあります。キリストが、人類全員でそんな風になれと教えているとは思えないのです。
しかし、神様の御心に叶う生き方には、やはりある程度の自制が必要でしょう。それが「慎ましく」の意味ではないかと私は考えました。
これを行動に移すには、人道上の必要や基本的な人権は満たしつつ、自分の時間をちょっとだけ「引き算」して人と分かち合う方法があるでしょう。
寄付や慈善活動のように社会的に「見える」行動だけでなく、たとえば一人暮らしの友達にEメールを送ってあげる、病気の誰かに手紙を書く、遠くで悲しむ友達や家族のために祈るなどです。誰も見ていなくても、日常生活の中で毎日少しだけ人に時間を分けてあげるのです。
この「引き算」を心がけるだけでも、私たちの心は一瞬なりとも謙虚になり、自分の立ち位置が見えてきます。あくまで一例で、できない日もあります。が、一度でも多くできたなら、神様はこの慎ましさを確かに見ていてくださるのではないでしょうか。