慎ましく

松尾 太 神父

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 少し前の話ですが、2018年の平昌オリンピックのスピードスケート500メートルの決勝で、小平奈緒選手がオリンピックレコードをたたき出した時、場内の観衆がそれは大きな歓声をあげました。しかし、その直後、小平選手がとった行動に、心から感銘を受けずにはおれませんでした。小平選手は、あとに滑る選手たちが集中できるように、口にそっと人差し指を当て、歓喜に沸く人々に静かにしてくださいと訴えたのです。トップに立ちながらも本当に慎ましく、かつ凛とした小平選手の心に感動しました。

 そこで、ふと思いました。一体イエス様は慎ましかったのだろうか、と。しかし、「わたしは柔和で謙遜である」(マタイ11・29)と自ら宣言するイエス様が慎ましいとはちょっと言えないように思いますが、皆さんいかがでしょう。

 福音書に描かれるイエス様の姿からは、わたしは正直、あまり慎ましいという印象は受けません。

 けれども、よく考えてみますと、イエス様はご自分では何も書き残しませんでした。福音書は、イエス様を直に見た弟子たちが口伝で伝えたことを後の人々が書き残したものです。そこでは、イエス様ご自身のことばと、イエス様に出会った人が受けた印象とが交じり合っています。「柔和で謙遜」とは、イエス様がご自分について語ったというより、弟子たちがイエス様について感じた印象をイエス様の口から言わせたものかもしれないのです。

 実はイエス様も、ご自分については多くを語らず、小平選手のように人に温かく真心こもったまなざしを注いでおられたのではなかろうかと、わたしは勝手に想像しています。あれだけ人を惹きつけてやまなかったイエス様が、慎ましく生きておられたのは間違いないでしょうから。

慎ましく

竹内 修一 神父

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 10年程前に、五合庵を尋ねたことがあります。それは、新潟県の国上山の麓にあり、かつて良寛さんが、47歳の頃から60歳まで住んでいたと言われます。その佇まいは、質素という言葉が相応しく、端的に彼の生き方を現しています。「鉄鉢に明日の米あり夕涼み」(良寛の句です)。托鉢の時のお椀には、取り敢えず、明日の米はある。静かな幸福感が漂います。慎ましく生きるとは、「足ることを知る」生き方ではないか、とそう思います。

 「知足者冨」(足るを知る者は富む)。(『老子』より)自らのいのちを弁える――そこから、真の仕合せは始まります。自分に足りない点を嘆くよりも、与えられている点を素直に喜ぶ、といった生き方でしょうか。「わたしの恵みはあなたに十分である」。これは、主がパウロに語った言葉。(2コリント12・9)そのパウロは、コリントの信徒にこう語ります。

 「いったいあなたの持っているもので、いただかなかったものがあるでしょうか」。(1コリント 4・7)

 パウロは、復活したキリストと出会います。それによって、彼の人生は、まったく新たなものへと変えられました――回心。それは、喜び。喜びは、いのちの寿ぎに他なりません。‶いのちそのもの〟である神が、私たち一人ひとりにそれぞれの命を与え、自らの懐へと招きます。その招きに対して、私たちは応えます――「命の泉はあなたにあり/あなたの光に、わたしたちは光を見る」。(詩編36・10)

 出雲崎の良寛堂の背後には、日本海が広がり、遠く佐渡の島が浮かびます。「青みたるなかにこぶしの花ざかり」(良寛)。辛夷のあの凛とした花の色は、慎ましく生きることの清々しさを映し出しています。


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