慎ましく

シスター 山本 久美子

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 私が「慎ましく」という言葉から第一に思い起こす人は、聖ヨセフです。教皇フランシスコは、昨年から今年の12月8日までの1年を「ヨセフ年」と宣言されました。

 教皇様は「新型コロナウイルスのパンデミックの中、聖ヨセフが、日々の困難を耐え忍び希望を与えているが決して目立つことのない、『普通の人々』の大切さを示している」と言われます。

 ヨセフは、イエスの人間の父として、神に選ばれ、神の心を大切に生き抜いた人です。人類の「救いの歴史」、イエスの生涯においても大きな役割を担った人ですが、決して脚光を浴びることもなく、聖書には一言も彼の言葉は記されていません。

 しかし、イエスは、ナザレでの日常生活において、養父であるヨセフを通して、御父なる神のいつくしみを実感されたに違いありません。

 聖ヨセフは、家庭の責任者として、マリアとイエスに仕え、彼らの生活を支えるために働き、汗を流し、日々の困難を耐え、慎ましく誠実に生きた「普通の人」でした。

 しかし、この家庭生活こそがイエスの宣教活動と十字架の死に至る道を支え、彼のたとえ話や人々とのかかわり方に見られる日常性は、その中で培ったものと言えると思います。例えば、決して裕福とは言えない生活の中で、イエスは、日常的に訪れる近所の人々とパンを分かち合うヨセフの姿を通して、4福音書に描かれる「パンの奇跡」のような経験を重ねられたのではないでしょうか。

 聖書は、十分に聖ヨセフの慎ましい人間性について語ってくれません。しかし、イエスの生き方、人々に示された憐みの心の中に、聖ヨセフの日常を愛し、慎ましく生きた人間性が反映されているように、私は思うのです。

慎ましく

熊本 洋

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 「慎ましく」は「慎ましい」の副詞です。「慎ましい」とは、辞書をみますと「ある事柄をしたり、ある状態を他に知られたりすることが遠慮される」とあります。その根拠、根源は、なんらかの宗教心にあるように思われます。何事につけ「神仏に手を合わせる謙虚な心」は、尊重されるだけでなく、なんらかの形で言葉や行動に表明されることが望まれます。この心があれば「神仏を前に万人平等である」という理念から、自分本位ではない、他人を慮る寛大な言動が自然発生するように思います。

 しかし、しばしば、親切のつもりでやったことが、相手には、迷惑な「おせっかい」となることも「なきにしもあらず」です。この点、相手に対する十分な理解と細やかな心遣いが必要です。「慎ましさ」も忘れてはなりまん。

 食前に、ひととき「慎ましく」手を合わせ、食前の祈りを唱え、感謝の念を表わすのは、ごく自然な仕草ですが、これは賞賛すべき誠に美しいマナーであります。出入り口で、人と出くわしたとき、after you 「お先に、どうぞ」と、先を譲るのも、心優しい gentle なマナーでありますいずれも、ちょっと「慎ましく」振る舞うことで、衝突が避けられるのみならず、人間関係やその場の雰囲気をも和ませ、すべてをスムーズに運ぶことを可能にしてくれます。このことを互いに、よく理解し、より良き人間関係のために、この「慎ましく」振る舞う、譲り合い精神を、ぜひとも、発揮したいものであります。

 これを端的に言いかえれば「出しゃばリ過ぎない、ひかえめな心」、「お節介でない謙虚な心」が要求されるということであります。


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