
人間の欲が絡む様々なニュースを見ながら、「幸せってなんだろう」と、ふと考えるときがある。多くのものを所有すること、権力の座にいること、健康であること・・・。でもいつか、それらがすべて奪い取られた時、何が残るのだろうか。誰も傷つけず、みんなが幸せで、決して奪い取られることのない幸せはあるのだろうか。
相田みつをさんの詩に"うばい合えば足らぬ わけ合えばあまる。うばい合えば憎しみ わけ合えば安らぎ"というものがある。
神様に与えられた多くの恵み。それらを必要な分だけ用い、互いに分け合えば、貧困や不平等、気候変動や環境劣化は解決され、平和と公正な世界が築かれて、みんなが幸せに生きるための持続可能な開発目標(SDGs)を達成することもできるのだろうと思う。けれどもいつの間にか、互いに奪い合い傷つけあいながら、自分だけの幸せや喜びを求めてしまう私たち人間。みんなが幸せに生きるためには、私たち一人ひとりの悔い改めが必要なのだろう。では、悔い改めるために何をすればよいのだろうか。
洗礼者ヨハネは言う。"分かち合うこと"、"必要以上のものを求めないこと"、"自分の分で満足すること"。この洗礼者ヨハネのことばは、慎ましく生きるようにとの呼びかけにも聞こえる。(参 ルカ3・11~14)
自分が持っているものを分かち合ったり、惜しみなく与えたり、仕事を誠実に行うことによって、誰かの生活を豊かにし、誰かを幸せにする。私利私欲の生活を見直して、慎ましく生きることで、誰かの心を満たす愛の実践を行っている。慎ましく生きることによって私は、知らないうちに、何者からも奪われない幸せを手にしているのかもしれない。

神学生の頃、祈りについての院長講話で「人は内側に深く入れば入るほど、強く外側に跳び出すことができる」と、目立たない内的生活の大切さを強調されたことがあります。これは単なる馬車馬ではいけないと思う私に、今も迫ってくる言葉です。
中高6年間、修道会の志願者として過ごした私は、毎週土曜の晩、修道院で一泊体験をしていました。修道会の上長まで務めた、一人の物静かで真面目な神父様は、祈りと食事以外は殆ど、休憩室でテレビを見ている生活でした。一見怠けているように見えそうですが、実はうつ病でした。土曜の晩ミサ後、休憩室へ行くと、いつもその神父様だけが黙ってナイター中継か歌謡番組を見ています。私も内気の為無言。二人は黙ってテレビを見るばかりの間柄と思っていました。
時は過ぎ、私は修道会を離れてしまい、30代直前に通信教育で教員免許を取得し、一旦小学校で働くことになりました。でも「こんなはずではなかった」と悩み、祈りたくてこっそり故郷の教会の前に来ると、長らく失礼していた神父様に鉢合わせてしまいました。合わせる顔もなく戸惑う私に神父様は「元気にしてた?」「今、どうしてるの」と穏やかに尋ねられました。静かに話を聞いてくださった神父様は、深い思いのこもった声で、「それは大変だったね」とおっしゃいました。
涙が止まらぬ程、私の心を貫いた神父様の言葉は、目立たぬ日々の祈りから紡ぎ出される、痛みへの深い共感の言葉であり、私にとっては温かな「本物の」神父様の言葉でした。
黙々と実直に、時に不器用に温かく、み旨を生き貫いた信仰者の模範聖ヨセフ。慎ましくとも、私たちが心に愛を深め、実践できるようお導きください。