
「慎ましく」その生涯を送った聖人といえば、聖ヨセフを私は思い浮かべます。そして、昨年の12月から1年間、カトリック教会は「聖ヨセフの年」を過ごしています。
大工として実直な生活を送り、神さまへの信頼ゆえに、身ごもっていたおとめマリアを妻に迎え、そして、ヘロデ王の刺客を避けて、家族をエジプトへと避難させ、ガリラヤで慎ましい生活を送り、その生涯を閉じました。
特に目立ったことをしたわけでなく、別名「沈黙の聖人」ともいわれますが、自分に課せられた役割を着実に黙々と果たし、家族を守り抜いた聖人だったともいえるでしょう。
この聖ヨセフの姿に倣って、現代を生きる私たち一人一人も、神さまから自分に与えられた能力を他者のために生かし、また同時に、自分に与えられた十字架を背負いながら、慎ましく生きるようにと招かれています。
この聖ヨセフの姿は、神さまの前に正しく謙虚であることは言うまでもなく、神さまと共に生きる人間の本来の姿を示しているとも思います。
現代に生きる私たちにとって、刺激的な出来事や出会い、何かを劇的に成し遂げることなど、華々しい何かを追い求めがちかもしれませんが、静かに淡々と、自らの分をわきまえて慎ましく生きる聖ヨセフの姿は、人間の本来あるべき姿を示しているのだと私は思います。
何気ない日常をどのように慎ましく生きていくか、それが問われているのではないかと思うのです。なぜなら、神さまとの出会いというものは、特別な時や場所で出会うのではなく、日常の何気ない生活の中でこそ神さまと出会っていくからです。
私たちの日常生活を改めて見直して、聖ヨセフを模範として、神さまと共に謙虚に歩んでいきたいと思います。

親になって子供の成長を見るようになると、子供のやる事、なす事、全てが自分に似ていて、全て身に覚えがあり、子供達の考えていることが手に取るように分かる。
私は、自分の記憶の限り、さして悪い事をする子供では無かったように思う。長男という立場もあったかも知れないが、いつも大人の目を気にして、大人に良く映ろうとして、お利口に立ち振る舞っていたように思う。悪い事をしないという意味では良い事であったのだろうが、同時に絶えず人の評価を気にする人間となり、やがて人の評価を欲する一面も強くなった。これはまさに虚栄心である。自分の子供達にも同じものが見えてしまう。
私はもうすぐ50歳になろうというのに自分の中に、様々な欲に支配されている自分がある。その中でもこの「虚栄心」が一番タチ悪く、自分でコントロール出来ない。この文章を書いている最中ですら、読む人の評価を気にしている自分がいる。
その一方で、欲から解放され、慎ましく生きる人に憧れる自分もいる。若い頃は、歳を重ねると徐々に慎ましい人間になっていくのかなと思っていたが、私の場合はこの「欲」が一向に衰える気配が無い。しかし、同時に虚栄心や、あらゆる欲が、自分自身を今の自分にまで高めてくれたのも事実だと思う。虚栄心があったからこそ、より良くなろう、より良い仕事が出来るようになろうと頑張って来た側面もある。もちろん、そのような欲無く、自身を高めている人もいると思う。
自分と同じ道を通っているわが子を見た時、慎ましく、清貧に生きる生き方と、欲を受け入れて自身を高めていく生き方と、二つに一つでは無いにせよ、どちらが好ましいのか答えが未だに見つからない。