新約聖書、ヨハネ福音書にはこんな話がある。(参 8・4~11)
イエスが朝早く神殿の境内で民衆に話していると、姦通の現場で捕まった女性を律法の学者たちが連れてきた。この女性をどうするべきかとイエスに質問して、その答え方によっては彼を訴えたかったのだ。
この時代、女性は男性の所有財産の一部と見なされていた。夫か息子がいなければ、生きることは難しく、極端に弱い立場だった。民衆の前で、罪びととして石殺しになりかけている女性を前にして、イエスは「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まずこの女に石を投げなさい」と言った。すると年長者から一人ずつ立ち去って行った。イエスは「わたしもあなたを罪に定めない。これからは、もう罪を犯してはならない」と暖かい言葉を女性にかけた。
彼女の行いを仕方がない、と見逃しているのではない。これからは罪を犯してはいけない、と言っている。罪は罪だ。だが、この女性をこれからもずっと罪びとだから死刑に値する、と決めつけることは人間がしてはいけないことだ、とおっしゃっている。私たちは皆、弱く、間違いを犯しやすいからだ。神の前に出るなら、まったく正しい人間は誰もいない。それを忘れずに生きるなら、ごう慢な気持ちから離れて人を断罪しない、慎ましい態度をとれるようになっていくだろう。
現代でも「死刑」はまだ行なわれている。それは、人が人を罪びとだとして抹殺する残酷な行為に他ならないと私は思う。犯した罪の重さを本当に実感し、悔い改めるように徹底して教育するなら、その人は心から償いたい、と思うのではないだろうか。私はそう信じている。