10代後半、私は大変混乱していました。洗礼を受けてはいたのですが、今まで知らなかった道徳観に触れたことから混乱したようです。
この混乱は私を成長させてくれたのですが、そう感じたのはだいぶ後の話。感謝するまでに相当の日数が必要でした。
その刺激的な言葉が「慎ましく」だったのです。
新旧聖書の中にも慎ましい感じの人間もいれば,これはひどいと驚く人間もいます。
この「慎ましい」という言葉、男女を問わず魅力的ではありますが、少々危険な言葉でもあるようです。両親や周囲の教育の中で「慎ましさ」の美しい面だけを強制的に躾けられた結果、非常に不自然な、かつ偽善的な「慎ましさ」となり、本来神様から与えられた「個性の美」が歪められ、のびのびと生きる喜びを知らない人間にも遭遇してきたからです。明るく自然にのびのびと生き、かつ、人々の幸せに貢献している人たちの中には、私の知る限り悪い人はいません。
この違いはどこから来るのでしょう?それぞれの成育史で人格は違いますが、何と言いましても、どの時代にもある不安感、怒り、憂鬱などの処理を間違うと、人は歪んだ人生を歩まざるを得なくなるようです。
これらのストレスを上手に処理して、どんな生活環境の中でも平安感、幸福感を育てる方法もありますから、自分の幸福とはどんなことなのか、じっくりと思索できる場に人々を置く環境をつくりたいものです。
慎ましく生きる美しさは非常に大切な人生目標ではありますが、大いにのびのびと明るく爽やかに逞しい人間になることも大切だなあ、と、シミジミ思います。