少し前の話ですが、2018年の平昌オリンピックのスピードスケート500メートルの決勝で、小平奈緒選手がオリンピックレコードをたたき出した時、場内の観衆がそれは大きな歓声をあげました。しかし、その直後、小平選手がとった行動に、心から感銘を受けずにはおれませんでした。小平選手は、あとに滑る選手たちが集中できるように、口にそっと人差し指を当て、歓喜に沸く人々に静かにしてくださいと訴えたのです。トップに立ちながらも本当に慎ましく、かつ凛とした小平選手の心に感動しました。
そこで、ふと思いました。一体イエス様は慎ましかったのだろうか、と。しかし、「わたしは柔和で謙遜である」(マタイ11・29)と自ら宣言するイエス様が慎ましいとはちょっと言えないように思いますが、皆さんいかがでしょう。
福音書に描かれるイエス様の姿からは、わたしは正直、あまり慎ましいという印象は受けません。
けれども、よく考えてみますと、イエス様はご自分では何も書き残しませんでした。福音書は、イエス様を直に見た弟子たちが口伝で伝えたことを後の人々が書き残したものです。そこでは、イエス様ご自身のことばと、イエス様に出会った人が受けた印象とが交じり合っています。「柔和で謙遜」とは、イエス様がご自分について語ったというより、弟子たちがイエス様について感じた印象をイエス様の口から言わせたものかもしれないのです。
実はイエス様も、ご自分については多くを語らず、小平選手のように人に温かく真心こもったまなざしを注いでおられたのではなかろうかと、わたしは勝手に想像しています。あれだけ人を惹きつけてやまなかったイエス様が、慎ましく生きておられたのは間違いないでしょうから。