10年程前に、五合庵を尋ねたことがあります。それは、新潟県の国上山の麓にあり、かつて良寛さんが、47歳の頃から60歳まで住んでいたと言われます。その佇まいは、質素という言葉が相応しく、端的に彼の生き方を現しています。「鉄鉢に明日の米あり夕涼み」(良寛の句です)。托鉢の時のお椀には、取り敢えず、明日の米はある。静かな幸福感が漂います。慎ましく生きるとは、「足ることを知る」生き方ではないか、とそう思います。
「知足者冨」(足るを知る者は富む)。(『老子』より)自らのいのちを弁える――そこから、真の仕合せは始まります。自分に足りない点を嘆くよりも、与えられている点を素直に喜ぶ、といった生き方でしょうか。「わたしの恵みはあなたに十分である」。これは、主がパウロに語った言葉。(2コリント12・9)そのパウロは、コリントの信徒にこう語ります。
「いったいあなたの持っているもので、いただかなかったものがあるでしょうか」。(1コリント 4・7)
パウロは、復活したキリストと出会います。それによって、彼の人生は、まったく新たなものへと変えられました――回心。それは、喜び。喜びは、いのちの寿ぎに他なりません。‶いのちそのもの〟である神が、私たち一人ひとりにそれぞれの命を与え、自らの懐へと招きます。その招きに対して、私たちは応えます――「命の泉はあなたにあり/あなたの光に、わたしたちは光を見る」。(詩編36・10)
出雲崎の良寛堂の背後には、日本海が広がり、遠く佐渡の島が浮かびます。「青みたるなかにこぶしの花ざかり」(良寛)。辛夷のあの凛とした花の色は、慎ましく生きることの清々しさを映し出しています。