「いつくしむ」とは、かわいがって大事にする、「愛する」ことの代名詞でもあり、聖書では、罪人を包み、癒す愛として示されています。しかし、一口に「愛する」と言っても、子どもの将来を考え、敢えて厳しく接する父親的愛もあれば、痛みに共感して優しく包み込む母親的愛もあると思います。いずれにせよ大切なのは、そこにどれだけ愛が込められているか、ということではないでしょうか。
大神学生の頃、神学校では次に進級できるか、毎年審査がありました。養成者の意見を聞くのは耳が痛く、5名くらいの神父様方から私は毎年のように、「おどおどして自信がなさそうに見える。もっと変わりなさい」と言われ、悩んでいました。そんな助祭叙階前、福岡の神学校での最後の夜、ある神父様に呼びだされて、言われました。「中野さん変わらないで。...そんな中野さんを通して救われる人がいるんだよ。だからお願い。変わらないで」と。
泣きそうな思いをこらえて聞いた言葉は、私にとって、いつくしみに溢れた司祭の言葉でした。「変わりなさい」。「変わらないで」。どちらも愛情のこもった言葉であり、こうした愛情を受けて、私は司祭にされました。
聖アウグスティヌスは述べています。「愛しなさい。そしてあなたが望むことを行いなさい。」「沈黙するときは、愛のゆえに沈黙しなさい。語るときは、愛のゆえに語りなさい。罰するときは、愛のゆえに罰しなさい。ゆるすときは、愛のゆえにゆるしなさい。愛に根ざしなさい。愛という根からは、善のほかは何も生まれないからです」。
いつくしみ深い主キリストの温かなみ心が、私の思いと行動となって現れますように。