偉大な神が、もし全能で偉大であるだけなら、私にはその神とふれ合ったり関係を持つことなど、決して出来なかったでしょう。もし、そのみ前に出たなら、私はただひたすら恐れおののくことになるでしょう。と言うのも、その時私は、今の私にとってのあるかないかの虫けら一匹にも及ばない、ゴミにすぎないでしょうから。
しかし、聖書と教会を通して私が知るようになった神は、そのように私を威圧し、私を踏み潰しても平気な恐るべき神ではありませんでした。思いも及ばないことでしたが、それとははるかに、想像を絶してかけ離れた方だったのです。
例えば、次のイザヤ書の一節は、私などが一生かけて頭を絞ったとしたも、決して想像出来なかった神の姿を、神ご自身が述べておられます。(参 49・14~16)
「主は私を見捨て、私を忘れられた」とのシオンの悲嘆の声に、神はこう答えられるのです。
「女が自分の乳飲み子を忘れるであろうか。・・たとえ(あり得ないことだが、もし)女たちが忘れようとも、私はあなたを忘れはしない」と。このように感動的にご自分の思いを打ち明けて下さる神は、私たちを熱愛される余り、続けてこうおっしゃるのです。「見よ、私はあなたを私の手のひらに刻みつける」と。
私は、恐るべき神ではなく、英臣命とタトゥのようにご自分の体に刻んだという、この、どこまでも私を慈しみ、それを喜ぶ神に、ある意味慣れてしまいました。
それで、本来ならそのみ前に出れば、恐れおののき、畏まる以外になかったはずなのに、逆に私はそのみ前でどれだけほっと胸をなで下ろし、心の和むのを感じていることか・・。
その上、私たちの主イエスは、その神を"お父さん"と呼びなさいとまで仰るのですから。