5月、自然が生み出す美しさに色彩られる季節。小鳥のさえずりや小川のせせらぎ、草花の甘い香りに心がホッとなごむ。耳を澄ませて聞かなければ、日常の騒音にかき消されてしまう、こうした自然の営みに心がなごむのは、人間が物質的なものでは満たされない心の貧しさを満たす何かが、そこにあるからなのだろう。
ーー空の鳥を見なさい。食べ物の心配をしなくても、天の父は鳥を養っておられるでしょう。野に咲いている百合を見なさい。今日は咲き、明日は枯れる草花でさえ、神様はこれほど心にかけてくださるのです。ーー(参 マタイ6・25~34)
小鳥も野の花も自然が与える太陽の光や水、大地がもたらす実りによって精一杯今を生きている。与えられたもので満足し、自然から受けた恵みをそのまま何も飾らずに表している。誰かに気づかれなくとも、静かに神様に与えられたいのちを生きている。
前後左右、見渡す限り私よりも優れた人は沢山いる。その人たちと比べて背伸びをし、思い悩む私に、野の花が優しく語りかける。「あるがままのあなたでいい」。忙しく駆け回っても心が空っぽな私に小鳥がそっとささやきかける。「少し立ち止まってごらん」。
キルケゴールは、百合と空の鳥を「沈黙の教師」「喜びの教師」であるといった。心のなごみは、静かな沈黙のうちに生まれるのかもしれない。
暖かい春の日差しに誘われて、ちょっと自然を散策してみよう。大自然の懐にそっと身を委ねてみよう。小さな花が神様のみ前で誠実に生きることの意味を、空の鳥が何にも執着せず自由に生きる喜びを教えてくれるかもしれない。そして、神様がこの私を良しとしてくださっていることを。