幼い頃、母は、様々な事を語ってくれました。その話は、大抵、私にとって戒めとなるような内容でした。例えば、私が我が儘ばかり言っていた時、母は、自分の知人で、我が儘ばかりを言っていた人が辿った運命を語りつつ、「お前も、我が儘ばかり言っていると、最終的に、この人のようになってしまうよ」と言わんばかりの、警告のような内容の話をしてくれました。私に対するその類の話の効果は、絶大でした。単純に叱られるより、私には効きました。何故なら、自分がやっている事が、滅びに繋がると気づかされたからです。幼い頃、父が単身赴任している中、どのように子供を躾ければ良いか考える内に、そのような話をするようになったのではないかと思います。
イエス様も、滅びについて話されました。エルサレムの神殿で、動物の生贄を捧げていたガリラヤ人が、ピラトの手によって殺されたという報告を受けたイエス様は、それに答えて次のように言われました。「あなた方は、そのガリラヤ人達が、そのような災難に遭ったからと言って、他の全てのガリラヤ人よりも、罪深い人々だったと思うのか。そうではない。あなた方に言っておく。あなた方も悔い改めなければ、皆同じように滅びる」。(ルカ13・2~3)更に、シロアムの塔の倒壊によって亡くなった人々の事を引き合いに出しながら、繰り返して言われました。「あなた方も悔い改めなければ、皆同じように滅びる」。(同13・5)
「滅び」という言葉を使うのは、神の愛を語る上で、余り相応しくないと考えられがちです。けれども、語り手の心の底にある思いに気づく時、有り難い言葉となります。母の話を思い出す時、そのように感じるのです。