聖書の中には、次のようなお話があります。
神殿の賽銭箱の向かいにイエスさまがお座りになり、群衆がそれにお金を入れる様子を見ておられます。すると、大勢の金持ちがたくさん賽銭箱にお金を入れています。
ところが、一人の貧しいやもめがやって来て、レプトン銅貨2枚を賽銭箱に入れていきます。このレプトン銅貨2枚という金銭価値は、一日の日給を1万円と考えれば、およそ156円にあたります。
イエスさまはこのことに気づいて、弟子たちにおっしゃいます。「はっきり言っておく、この貧しいやもめは、賽銭箱に入れている人の中で、だれよりもたくさん入れた。皆は有り余る中から入れたが、この人は、乏しい中から自分の持っている物をすべて、生活費を全部入れたからである。」(マルコ12・43~44)
このイエスさまの鋭い気づきは、何をどれだけ神さまにお捧げするか、ということに問いを突き付けてきます。イエスさまが気づかれた貧しいやもめの献金は、生活費のすべてだったのです。おそらく、その日の食事として、パンを一切れ買うことができたかもしれません。
このようにイエスさまの気づきは、時々、厳しい言葉として、私自身に降りかかってきます。はたして、今の私が、この貧しいやもめのように、すべてを神さまに任せて、財布の中身を全部神さまにささげられるだろうか、と。
正直に申し上げると、貧しいやもめのようにできない自分自身に気づいてしまうのです。でも、今はそれでも良いのだと思います。今、できなくとも、いずれ私自身がこの世を去る時に、すべてを置いて神さまのみもとに行くのですから。
この貧しいやもめのお話は、すべてを神さまに捧げることの深い意味を教えてくれているようです。