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気づき

中野 健一郎 神父

今日の心の糧イメージ

 3月17日は日本の信徒発見の聖母の祝日。この恵み深い日は、私にとっては司祭叙階記念日でもあります。叙階三日程前の静かなひととき、「自分が司祭になるなんて、とんでもない」という不安と心配が、とてつもなく高まって恐ろしくなり、受けたはずのゆるしの秘跡を再び受けるために、いつものおじいちゃん神父様のところへ行きました。

 私の告白を聴いた神父様はおっしゃいました。「聖書の中に『反省』という文字はありません。でもあなたが言うのは自分が悪かったと、自分のことばかり。それは完全な痛悔ではありません。イエスさまは尊い血で、そんなあなたを救い、使命を与えてくださったのです。その大きなお恵みを忘れないで、叙階の秘跡を受けなさい」と。

 叙階の翌週、初の主日のミサを、幼い頃から憧れだった神父様が最後に司牧しておられた、宇都宮の教会で捧げさせていただきました。

 神父様ご自身が設計して建てられた教会で初ミサを捧げると、既に天に召された神父様に再び会えた気がしました。

 ミサ後あるシスターから、青年たちの聖書の分かち合いに誘われました。栃木の青年5名程と分かち合った聖書は、偶々『放蕩息子』の箇所でした。自分勝手に父との絆を断った息子の帰りを、首を長くして待っていた慈愛に満ちた父の話。分かち合いが進むうちに、あることに気づき、涙が止まらなくなりました。私の失敗だらけの回り道にも、変わらない愛をもって導いておられたお方がいる。そのお方からのとてつもなく素晴らしいプレゼントが、この司祭職なのだと。

 愛され、恵まれ、導かれて、生かされている。このことに、今日もどれだけ気づくことができるか、問われている毎日です。