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気づき

西田 仁

今日の心の糧イメージ

 「気づき」という言葉を神様からの何らかのサインであるような意味で使われる場面によく遭遇します。しかしながら、不真面目な信徒であった私は、正直なところ、この神様からのメッセージであろう「気づき」というものに出会ったその場で気づけた事がほとんどありません。いや、むしろ皆無かもしれません。

 ところが、何十年も経ってから、「あの時の事はこういう事だったのか」と気づかされる経験が多々あります。私は中学、高校をイエズス会の学校に通いました。「従順」という精神がとても大事にされた校風でした。その時々、理解出来ず、反発する感情があったとしても、最終的にはまずは受け入れ、従う。そのように育てられました。

 中学時代に違和感を覚えた聖書の場面がありました。それは聖母マリアが若きイエスの言動の意味を理解出来なかった時に、それでもイエスに従い、心にとめておかれる場面でした。(参 ヨハネ2・1~12)キリストの誕生から、ご復活までの話の流れの中で、このお話は必要なのだろうかと思い、その場面が無理やりに聖書の中にねじ込まれているような不自然さを当時は感じた記憶があります。ところが、両親から、あるいは学生時代の師達からの言動に対し、当時はその意味を理解出来ずに、「気づき」どころか反発さえ感じていた事が、50歳を手前にしてようやく感謝の気持ちを持って理解出来るようになると、あのマリア様の場面の意味を、それこそ「気づく」ようになりました。

 「気づき」の為には、自分自身の開かれた「こころ」も勿論大事なのですが、決して無批判な服従という意味ではなく、「従順」である事がとても大事だと思う今日この頃です。