
歴史書を読んでいて、B.C.やA.D.という表記を「紀元前」、「紀元後」と習ってきて、それが何の略語なのかと意味がわかったのが、ずいぶんな年齢になってからだった。
教えてもらったのが、日本に宣教に来ているカトリックの司祭だった。「信じられない!」と仰天されてしまった。しかし、「今わかったのだから、それでいい」と言われた。
B.C.は英語「ビフォー・クライスト」キリスト誕生以前、A.D.はラテン語で「アンノ・ドミニ」で、主イエス・キリストが誕生した年を、元年としているということなのだ。
2021年は、新しい年が始まるという気持ちではなく、命と時間を「キリスト紀元後」を、真のキリスト者として生きたい。年単位ではなく、私に与えられている限りある命と時間を投げ出して、愛の証をしてみたいと思った。このように考えると、キリスト者として生きる年齢は暦年齢で数えるのは無駄な気がしてきた。神さまにどのような時間を送り、どのように命を献げていくかが私にとっての最大の課題である。
イエス・キリストの誕生後、最初の殉教者となったのは、イエスが生まれたのを聞き、ヘロデ大王が殺害したベツレヘムの2歳以下の男の子たちである。名を記されることなく、この世に2年足らずしか生きられなかった男の子たち。彼らも「キリスト紀元後」を生きた立派な殉教者なのだ。
暦年齢でははるかに私は上であるけれど、キリストに命をささげた幼な子たちの命は短かったとは言えない。清冽な愛の証をしたからだ。
これから私も主イエスの愛の証をする「新たな出発」をしよう。

一年の始まりが一月なら、一日の始まりは朝です。
始まりの時に、感謝の気持ちがあれば、幸せな気もちになれます。何も特別なことがおこらなくても、いま、ここで感謝していると、いま、ここで幸福を感じられます。
今日という時間は、私たちに与えられた贈り物です。とても有り難いものです。
どんなに望んでも今日という時間は、自分で生み出せるものではありません。
どんなに優れた人間も機械も、今日を創り出すことはできません。どんなに富と権力をもっていても、そのゆえ今日が与えられることはありません。どんなに強く生きたいと願っても、いつまでも今日が与えられることはありません。
今日を生きたかったのに、泣く泣く逝ってしまった人は大勢いるのです。
このような貴重な時間を、私たちは毎日、神様から無償で与えられているのです。
朝、目覚めたときに、「今日も一日をありがとうございます」と、手を合わせ、口に出して感謝する人がいます。不治の病に倒れ、病床でいつ召されるか、わからない人です。その人にとって、一日一日が残りの人生です。愛する家族と過ごせる今日という時間は、その人にとってお金や宝石よりも貴重なものなのです。
私たちも、朝、同じように自分の一日が始まります。やはり、一日一日が残りの人生です。
私たちは、この今日という新しい人生の一ページに新しい文字を書くことができます。自由に伸びやかに、自分の物語を刻むことができます。それはどれだけ有難く素晴らしいことでしょう。
朝の光を浴び、新鮮な空気を胸いっぱいすって、今日も生きていることに感謝できます。
今日、喜びをもって新たな出発をすることができます。