
今から20年ほど前、大阪の教会の中高生を連れて、よく津和野巡礼をしました。教会の方に運転手を頼み、バスでドライブです。
その巡礼で、あるとき、ちょっと変わった中学2年の男の子が参加しました。自分だけが大切で、人には何も関心を持たない、いわゆる自己中心の生徒でした。だから、だんだん彼の周りには人が寄りつかなくなり、孤立し始めました。
3日目になり、プログラムに自転車で津和野を回る企画がありました。朝お店で、自転車を借り、そこから班ごとに回ります。そして夕方には、お店に自転車を返しに来ました。ほとんどの班が、集まったとき、突然空が暗くなり、大きな雷鳴と共に夕立が降ってきました。宿舎の教会から歩いて10分ほどのところですから、みんなで雨宿りをすることにしました。10分、20分と時間は経ちますが、雨は小降りになりません。
そのときです。話題の男の子が、猛烈な勢いで雨の中を駆けだしていったのです。皆は、また彼の変わった行動が始まったとあきれていました。すると5分ほど経ったとき、彼が戻ってきました。ずぶ濡れの体で、手には大量の傘を抱えてです。
「わあ」っと声が起き、自然と拍手が沸き起こっていました。「ありがとう。」「ずぶ濡れじゃあないか。風邪を引くなよ。」「帰ったら君が真っ先に風呂に入れ。」男の子、女の子を問わず、そんな声が彼にかけられたのです。
それからです。彼の立ち位置ががらりと変わりました。彼が話題の中心になりました。
今までの自分のあり方を振り返り、人々との違いを感じ始めた彼は、大切なきっかけを活かし、自分の人生を見事に勇気ある中学生として再出発させたのです。

私が生まれた時代は昭和です。母が父に名前を決めて欲しいので電報を打ちますと、海軍の作戦中だった父から「生まれた土地の名、高雄にせよ」と返電が来て、私は「高雄」という名で人生を出発することとなりました。
さて、人類一人ひとりの誕生の背景には不思議な絡み合いがあります。色々観察すると、その人が自分の天命、天職を意識しているかは別として、どうも神様は一人ひとりに何かを囁いておられ、そのことを人は、ある時ふと気づくようです。神父や修道者への道、結婚、色々な職業、いずれも水の流れのように人生が流れ始めます。この、道の選択は神秘的。
職業柄、いつも人々の生き甲斐を観察していますが、生きる喜びを感じている人に共通なのは自分に正直、という事。
料理、音楽、絵画でも好き嫌いを明確に意識され、態度には表わしませんが、好きな人、嫌いな人、とはっきりしていて、スカッとした人間関係を持っておられます。人生のいたずらで嫌いな人々に囲まれた時、その人は、全知全能の神様にお任せしていて、あっけらかんと馬鹿話を楽しむそうです。
今、ウイルス問題で先が見えない不安の時代に生きていますが、どんな場合でも、不安感をどう処理したら、その人に相応しい新しい幸福への道が見つかるのでしょうか?答えは一つ、その不安感の解釈をどうするか、です。不安感は「理想と現実のギャップが不安感」と定義されていますので、それぞれの事例をこの法則に当てはめて解釈しますと、答が見えてきます。
すなわち、不安感は神様からの愛のシグナルでもあり、新たな出発方向を示唆する知恵の源のようです。