聖書を読んでいると、イエス様の弟子の条件の一つは気づきの人であると思うようになりました。
例えば、マタイ25章の最後の審判のたとえがそうです。「父に祝福された人たち」と「呪われた者ども」は、どちらも同じ、飢えた人、病気の人、虐げられた人を見ましたが、取った行動が全く異なりました。
「父に祝福された人たち」が、飢えている人を見て食べさせ、旅をしている人に宿を貸し、裸の人に着せ、病気の人や牢にいる人を見舞うことができたのは、その人の必要に気づくことができたからです。一方「呪われた者ども」は、飢えたり、凍えたり、孤独な人達を見ても、彼らが何を必要としているか気づかず、あるいは気づいてもそれを満たすのは自分の役目ではないと思ったのではないでしょうか。
私は若い頃、比較的いろいろと気づく方でした。そのことで厄介さを感じていました。なぜなら、気づいてしまったらそのことが解決するまで気が休まらないからです。気づいていて何もしないのは良心が痛む、そうかと言って積極的に自分を差し出す寛大さも持ち合わせていません。いっそのこと、何も気づかない方が楽だと思うこともありました。
でも、年を取ることの恵みでしょうか、「すべて多く与えられた者は、多く求められ、多く任された者は、さらに多く要求される」(ルカ12・48)というイエス様のお言葉が響くようになりました。「あなたに多くのことを気づかせているのは、それをあなたにしてもらいたいからだ。あなたの手足を通して、あなたの口を通して私が働くために」と。
イエス様が私に与えてくださった気づきは、イエス様の大きな期待の表れ、私に与えられた使命なのです。気づきの人でありたいと思います。