眼差しとは、目の見える人、視線を使いこなせる人だけのものでしょうか。だとしたら、眼差しを送ることも受け取ることもできない人が存在することになるでしょう。
しかし、目の見えた時期が、生まれてから4年間しかなかった私にも、眼差しは感じられます。また、驚かれるかもしれませんが、眼差しと同じ効果のある「サイン」を送ることもできると感じています。
私にとって、眼差しは一種のエネルギー波動とでもいえる力の働きであるようです。たとえば電車に乗ったとき、左右の座席から「あっ、白い杖の人だ」という視線を感じることがあります。その背後には、席を譲ろうかどうしようか、譲りたいけど声が出しにくい、譲らないといけないと思うけど・・・など、さまざまな心の声が聞こえてきます。
また街を歩いていて、ふと視線を感じることがあります。それは、奇異な目で見る視線の場合も時折ありますが、大半は、困っていないかしら、手を貸さなくて大丈夫かしらという温かい視線です。これは、眼差しと言えるものでしょう。
私から眼差しを送ることは、もちろん物理的には不可能です。しかし、心から語りかけたり、演奏したり、あるいは黙っていても手を差し伸べたり頷いたりといった動作を通して、眼差しと同じく私の心を伝えることができます。そうした動作の中に込めた私の気持ちは、エネルギーとなり、眼差しの代わりに人に伝わっていきます。そして、それを受け取った人から、反応が返ってくるのです。
眼差しはまた、言葉にもこもってきます。一言を発するとき、自分の眼差しを意識すれば、きっと言葉も洗練されてくることでしょう。
眼差しとは、自分と人とのかかわりそのものだからです。