新たな出発

崔 友本枝

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 旧約聖書の「創世記」にはこのように書かれています。人類の最初の人たちは神さまに愛されて、美しい楽園に住んでいました。神と人間と自然は素晴らしいハーモニーを奏でていました。人は、まるで友達のように神さまと親しく語り合っていました。

 神さまは愛そのものです。悪とは共存できません。ですから、楽園には害を与えるものは何もありませんでした。人間に自由意志を与え、すべての木の実を食べていいが、「善悪の知識の木の実」だけは食べてはいけない、神さまとの関係が断たれ、死んでしまうからと教えました。

 全世界を完全に把握し、善と悪を知っておられるのは神さまお一人です。愛である方がすべてを司っておられたので生きているものすべてが幸福でした。

 さて、ある時、人は神に成り代わりたいという誘惑に負けて「善悪の知識の木の実」を食べてしまいました。人は弱い自分の姿をありありと見ましたが、受け入れられずに苦しみました。神さまの愛と善意を疑う心には、自分を絶対的な基準にする「傲慢」という悪が入りこんでいました。最大の幸福をもたらす神との交わりを壊してしまったので、そこはもう楽園ではなくなりました。

 この箇所は何度も読んでいるのですが、昨日は新たな気づきがありました。私たちも自分を基準にして周りの人を裁き、数々の出来事を不安と疑いのまなざしで見るなら、私たちの幸せだけを考えておられる神さまの愛を退けている、それこそが人間を不幸にしている原因だということです。どんな出来事も、罪を悔いてもっと善い生き方をするために神が与えているチャンスです。

 幼子のように神の愛に信頼し、身を委ねて生きること、それが「新たな出発」だと思いました。

新たな出発

中野 健一郎 神父

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 20代半ばに富士山のふもとで、初めて個人指導の黙想を受けたことは、私にとって再出発の恵みの機会でした。祈りといえば祈祷文を唱えるばかりだった私には、目からうろこが落ちる体験でした。

 「沈まれ、私こそ神であることを知れ」(詩編46・11)とのみ言葉に始まった黙想での指導者は聖霊。訓練を受けた導き手のシスターが霊的同伴者です。

 その方との面談で、祈るためのみ言葉の箇所や課題が提示され、一時間程沈黙で祈ります。そこで感じた心の動きや、祈りの結果をもって、また面談を受け、次へ進む形でした。

 ところが、当時の私は「自分は駄目人間で大嫌い」という、マイナス思考で暗い心の状態でした。気づいたシスターは、「まず誰もいない裏の茶畑で大声で叫んで、感情をぶちまけて、すっきりしてからいらっしゃい」とおっしゃいました。

 黙想に入ってからも、同伴者に容赦はありません。《キリストは、あなたにとって何者ですか》との課題に、「救い主」「従うべき方」などと答えると、「頭で考えた言葉でなく、本音を聞いているのに、それでは本当の神さまに出会えませんよ」との答え。それで再び祈り直すと、「私に価値を与えてくれた方...?」との答えが絞り出されてきました。シスターは「いい線いってる」とおっしゃり、「では、《キリストにとって、あなたは何者ですか》」と問われました。祈り直すと、「イエスさまは、『価値ある大切な、わが愛する子よ』と呼んでおられるはず」と気づき、物凄く嬉しくなり、外に出て眺めた富士山がとても美しく見えました。

 「物事は逆立ちして見なさい」とのシスターの言葉を胸に、今日もみ言葉を読み、再び神さまと出会う時間を楽しむ日々です。


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