旧約聖書の「創世記」にはこのように書かれています。人類の最初の人たちは神さまに愛されて、美しい楽園に住んでいました。神と人間と自然は素晴らしいハーモニーを奏でていました。人は、まるで友達のように神さまと親しく語り合っていました。
神さまは愛そのものです。悪とは共存できません。ですから、楽園には害を与えるものは何もありませんでした。人間に自由意志を与え、すべての木の実を食べていいが、「善悪の知識の木の実」だけは食べてはいけない、神さまとの関係が断たれ、死んでしまうからと教えました。
全世界を完全に把握し、善と悪を知っておられるのは神さまお一人です。愛である方がすべてを司っておられたので生きているものすべてが幸福でした。
さて、ある時、人は神に成り代わりたいという誘惑に負けて「善悪の知識の木の実」を食べてしまいました。人は弱い自分の姿をありありと見ましたが、受け入れられずに苦しみました。神さまの愛と善意を疑う心には、自分を絶対的な基準にする「傲慢」という悪が入りこんでいました。最大の幸福をもたらす神との交わりを壊してしまったので、そこはもう楽園ではなくなりました。
この箇所は何度も読んでいるのですが、昨日は新たな気づきがありました。私たちも自分を基準にして周りの人を裁き、数々の出来事を不安と疑いのまなざしで見るなら、私たちの幸せだけを考えておられる神さまの愛を退けている、それこそが人間を不幸にしている原因だということです。どんな出来事も、罪を悔いてもっと善い生き方をするために神が与えているチャンスです。
幼子のように神の愛に信頼し、身を委ねて生きること、それが「新たな出発」だと思いました。