20代半ばに富士山のふもとで、初めて個人指導の黙想を受けたことは、私にとって再出発の恵みの機会でした。祈りといえば祈祷文を唱えるばかりだった私には、目からうろこが落ちる体験でした。
「沈まれ、私こそ神であることを知れ」(詩編46・11)とのみ言葉に始まった黙想での指導者は聖霊。訓練を受けた導き手のシスターが霊的同伴者です。
その方との面談で、祈るためのみ言葉の箇所や課題が提示され、一時間程沈黙で祈ります。そこで感じた心の動きや、祈りの結果をもって、また面談を受け、次へ進む形でした。
ところが、当時の私は「自分は駄目人間で大嫌い」という、マイナス思考で暗い心の状態でした。気づいたシスターは、「まず誰もいない裏の茶畑で大声で叫んで、感情をぶちまけて、すっきりしてからいらっしゃい」とおっしゃいました。
黙想に入ってからも、同伴者に容赦はありません。《キリストは、あなたにとって何者ですか》との課題に、「救い主」「従うべき方」などと答えると、「頭で考えた言葉でなく、本音を聞いているのに、それでは本当の神さまに出会えませんよ」との答え。それで再び祈り直すと、「私に価値を与えてくれた方...?」との答えが絞り出されてきました。シスターは「いい線いってる」とおっしゃり、「では、《キリストにとって、あなたは何者ですか》」と問われました。祈り直すと、「イエスさまは、『価値ある大切な、わが愛する子よ』と呼んでおられるはず」と気づき、物凄く嬉しくなり、外に出て眺めた富士山がとても美しく見えました。
「物事は逆立ちして見なさい」とのシスターの言葉を胸に、今日もみ言葉を読み、再び神さまと出会う時間を楽しむ日々です。