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約束

服部 剛

今日の心の糧イメージ

 若かりし頃、私は詩人の友と旅に出ました。朗読活動をする僕等は、大阪で行われる朗読会に出演するため、待ち合わせて深夜バス乗り場に向かいました。その頃の彼は心の風邪をひいたように元気がなかったこともあり、〈旅の間、どのように接すればよいだろう?〉と考えていました。

 バスの出発までだいぶ時間があったため、僕等は待合室で腰を下ろしていると、彼は自分の母親を知らないことなど、自身の生い立ちを語り出しました。初めて身の上話を聞く私は、彼の思いを受けとめるように静かに頷き、聴き入りました。やがて、深夜バスに乗り込んで出発、しばらくすると寝息が聞こえ、後ろの席の彼を見ると、その寝顔は笑みを浮かべているように穏やかでした。

 その後も僕等はずっと朗読活動を続けてきましたが、新型コロナウイルス感染拡大の影響で朗読する機会がめっきり減りました。顔を合わせる機会がなくなってしまった分、私は彼と電話で語り合うことが増えました。

 ある夜、外出先の彼はいつもと様子が違いました。「ちょっと待ってね」と言っては、辛そうに沈黙し、時折ポツリと会話をしては無言、やがて、「ごめんね...」と言いました。私はただ〈受けとめよう〉と思い、「大丈夫だよ。ゆっくり、ゆっくり」と応じました。1時間を過ぎた頃、帰路に着く彼に「ずっと電話の電源を入れておくから、何時でも連絡してね」と約束し、電話を終えました。

 それから数時間後、私の携帯電話が鳴りました。彼は電話口で鼻歌を唄った後、明るい声で「家に着いたよ」と報告してくれたのでした。ホッとしました。

 彼が長い間抱える心の風邪を治せなくとも、疲れた心を受けとめることの大切さを思い、私は布団に入りました。