福音書には、イエスさまの言葉と行いが主に書かれています。その中には、わたしたちに対する約束の言葉もあります。私がご紹介したいのは、よくご葬儀のミサで読まれる聖書の個所なのですが、次のようにイエスさまが語られる個所があります。
「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる。」(ヨハネ14・1~3)
愛する方を神さまのもとに送られる、悲しみの中にあるご遺族と共に、この聖書の言葉をよく朗読しますが、これこそ、イエスさまの究極の約束の言葉、救いの言葉なのではないか、と私は思うのです。
言い方を変えれば、イエスさまの約束はすべて、救いの約束であると言えます。通常、約束というのは、それを守る人同士がしっかりとその内容を守る必要があります。しかし、イエスさまの約束は、ある意味一方的で、わたしたちには義務も負い目もありません。ただ、この救いの約束に自らの身をゆだねていくだけです。
現実が厳しいものであろうと、また、時には、くじけそうになったとしても、わたしたちには希望があります。それは、救いの約束が告げられ、わたしたちを招く手が常に差し伸べ続けられているからです。数多くの人々が、特に、愛する人たちを神さまのみもとへと送った人たちが、この言葉により頼み、この言葉に希望をおいて、日々、歩んでおられるのだと思います。私もこの約束に希望をおいていきたいと思います。